プロ野球

清原和博氏、 野村克也さんに手紙「野村監督の下で野球がやりたかった…」

野村克也様

今こうして手紙を書いていることを残念に思います。そして直接お詫びを言いたかったこと後悔の念にかられています。

思えば私と野村さんとのご縁はヘルメットが結んでくれました。昭和61年に西武ライオンズに入団した私は人よりも頭が大きかったためサイズの合うヘルメットがありませんでした。

困り果てていたところ、球団の方が倉庫にあった大きいサイズのものを持ってきてくれ、これがピッタリとフィットしました。良く見ると「19」と書いてありました。

現役時代の野村さんのもので何年もの間、埃だらけで倉庫に置いてあったそうです。以来、引退するまでの23年間ずっと使い続けました。

巨人、オリックスと球団が変わるたびに色を塗り替え頭にデットボールを受けた後も修理してもらって使いました。野村さんの背番号「19」の跡が残っていたので心強い気持ちで打席に立ち続けることができました。

新人の頃、右打者で俺のホームラン記録を抜くとすればこの男だと評価していただきました。

巨人に移籍した平成9年に思うような結果を残せず、思い悩んで当時ヤクルトの監督だった野村さんにお会いしたいと相談を持ちかけました。

右バッターで史上最多となる657本塁打の医大な記録を持つ野村さんにバッティングのアドバイスをもらいたいと考えていたからです。

しかし野村さんは会わない方がいいだろう言って、代わりに便せん7、8枚の手紙とサイン入りのバットを送ってくださいました。

手紙には技術的なことではなく、気の持ち方が書いてあり何度も繰り返して読ませていただいたことを覚えております。

一度でいいから同じユニフォームを来て野村監督の下で野球をやりたかった、野球を勉強させていただきたかったと思っていました。

引退後は何度か野村さん夫妻と食事をさせて頂きました。食後に奥様が帰られ野村さんと二人だけで銀座に出た時には何度も早くユニフォームを着ろと言われました。

そのような会食も5年ほど前が最後になってしまいました。

私の罪を犯した時、野村さんがバカヤロウだと人づてにコメントしたと聞き本当に心が痛みました。そして判決を受けた後にはいつか野球界に戻ってこいと伝えてくださいました。

執行猶予を終えたら直接謝罪に行かなければならないと思っていました。新人の頃から期待をかけてかけて下さっていたのに裏切ってしまい心からお詫びしたいっと思っていました。

それがかなわず残念で残念でしかたありません。野村さんから引き継いだヘルメットは野村さんの形見として一生大切にしてきます。

そして野村さんがいつも説いていたように、一人の人間としてしっかりと生きていけるよう努力して参ります。

野村さん、安らかにお眠りください。ありがとうございました。

そして…本当に申し訳ありませんでした。

令和2年2月15日 清原和博

 

 

※このブログは清原和博さんが野村克也さんに宛てた手紙を永久保存したいと思い文字起こしさせていただきました。もちろん広告は外しております。